「五足の靴」をゆく   明治の修学旅行    森まゆみ著

 五足の靴とは、明治40年夏 与謝野鉄幹 北原白秋 吉井勇 平野満里 木下杢太郎 の五人が南蛮文化への興味を胸に九州を旅し、その年の8月7日から9月10日にかけ東京二六新聞に連載された旅行記です。

  

 

 作家の森まゆみさんはその五人が旅した行程を追体験し「五足の靴」をゆくを発刊しました。

まだ少ししか読んでいませんが、ご紹介します。

 

 著者は本書を書いた動機をあとがきに書いています。

 

 西洋というものが日本に入ってきた時、人はその技術を学ぶのに躍起となり、それが「文明開化」であり、「殖産興業」であったのだろうけれど、知識人たちはその技術や思想の因ってきたる精神をも知ろうとして、キリスト教に関心を抱き、さらに日本にキリスト教がもたされた16世紀半ばに思いをいたしたのである。 九星霜を費やして雑誌に訳載されたあげく、明治35年に刊行されたアンデルセン「即興詩人」は森鴎外によるドイツ語からの重訳であったが、そこに描かれた19世紀のイタリア、そのカトリック世界は、文語体による洗練された文章と相まって人々を惹きつけて止まらなかった。本書を書いた一の動機はまず「五足の靴」にいかに「即興詩人」の影響が大きいかを見ることである。鴎外を敬愛した与謝野鉄幹と若い仲間たちは、西洋に行くことは難けれど、せめて九州の、宣教師がやってきて布教したところ、そこで伝えられた事物、禁教をきっかけに少年を総大将に起こった乱の現場、そして今も教会に神父のいるところを訪ねてみようと思い立った。そしてやがて鉄幹、萬里、杢太郎らは、鴎外の見たかったフランスやイタリアも旅することになる。

 

 と述べている。そうであるからフランシスコザビエルや、三浦按針が来訪し、南蛮貿易で栄え、キリシタン布教と禁教制に揺れた平戸については、その歴史的概要を述べながら著書の思いを書いている。的土大島にまで足を運び、捕鯨まで言及しているので、この本を読めば平戸の歴史の一部が解るような気がします。かなり詳しく書いています。

 そのなかでセンスのよいリフォームが施された大曲家のリビングで、生ガキや魚のリュウキュウ漬けなど、美味しい昼食を頂いたとの一文があります。

 又平戸の領主松浦家の祖、源融が源氏物語の主人公のモデルとあり初耳です。

まだ一部しか読んでいませんが、長い時間をかけて追体験しただけあって読みごたえのある本になっています。

 

 「五足の靴」は小作品ながら、幅広い層に「南蛮趣味」「キリシタン」を日本の重要な文化遺産として「再発見」させる契機となったという意味で後世に果たした役割は大きい。

 
 

hirad3519 | 平戸の歴史 | 20:05 | - | - | - | - |

連載小説 業平 小説 伊勢物語   蘯のぶ子

 平戸松浦氏は鎌倉時代から明治にかけておよそ700年間、平戸の領主であり続けました。

松浦氏は始祖を、平安時代の嵯峨天皇題18皇子左大臣源融(みなもとのとおる)とし、大阪摂津に居住した渡辺綱を第5代、平安末期に松浦地方に下向した松浦久(まつらひさし)を第8代とするとなっています。

 

 今、日経夕刊の連載小説は平安時代初期の物語である伊勢物語を、蘯のぶ子の眼を通して現代文にしたものです。主人公である在原業平は歌人なので頻繁に歌がでてくるけど、私は歌の内容についてはまったく読解不能。説明文を読んでそんな意味なのかと不思議がりながらも、小説は面白く毎日楽しんでいる。ひとつだけ ちはやふる神代もきかず竜田川 から紅に水くくるとは 聞いたような歌だと思ったら百人一首にある一句です。

 

 その「業平」に、源融が友人としてときどき登場してくる。今の 鶯のこぼれる涙 の章ではここのところ毎日登場している。

「平戸の文化と自然」で松浦氏の始祖としてでてくるのは一行だけなので記号みたいなきがするけど、小説として描かれると人としての人格をもってきます。伊勢物語に源融がでてくるとは新発見で一人興奮している。

 

 

 



 

hirad3519 | 平戸の歴史 | 18:32 | - | - | - | - |

里田原遺跡  平戸市田平町

 今年も1週間ほど平戸に帰省しました。帰りには兵庫にいる母にも会ってきました。

 平戸も暑く目的地に行くのにできるだけ歩かないように気を付けていたので、東京に帰ってから、妻にいつもより顔が焼けていないね、といわれそれなりの効用はあったようです。

あっというまの1週間です。今回はこれまで行ったことがない平戸をまわってきました。

 

その一つが田平の里田原遺跡にある里田原歴史民俗資料館です。里田原遺跡は弥生時代の木製品が多種多量出土していることで知られています。
 

 鋤(すき)

 

  土器や石器は土に埋もれても残りますが木製品は残りません。里田原遺跡では地下水と粘土に密閉されたところで木製品が現存していました。出土した木製品は農具・工具・生活用品・建設部材・祭祀具など多岐にわたるため、初期農耕文化の一端を窺うことができるところから、貴重な遺跡と言えます。

 

 職員の方がついてくださり、丁寧な説明をうけました。その他に薩摩塔についても説明をうけ、平戸南部宮之浦の志々伎神社の一部沖の宮にある、薩摩塔を自分でスケッチした図をみせてもらうことができました。安満岳にもありますが、信仰のためと思っていたら、当初は大切                      

  鍬(くわ)           な場所をしめすために設置されたもので、中国との交流などに関係していたのではとみなされ

                  ています。                

hirad3519 | 平戸の歴史 | 19:04 | - | - | - | - |

楽歳堂文庫そしてウイリアム・アダムス(三浦按針)

 第9代平戸藩主松浦清(清山)(1760〜1841)は平戸城内に楽歳堂文庫を設立しました。日本各地、また長崎から購入したオランダ関係資料等貴重な文物が収蔵されました。そのほとんどは図書ですが、中にはオランダで制作された地球儀や天球儀、アイヌ関係資料、絵画、発掘品なども収蔵されました。

 現在、これらの図書をはじめとした楽歳堂関係資料の多くは松浦資料博物館に現存しています。「平戸の文化と自然」より。

 

写真はオランダで制作された天球儀。
 

 

 

 オランダは東洋へ進出するため、デ・リ−フデ号おふくむ5隻の船が1598年6月オランダ・ロッテルダムを出発したが、太平洋を横断したのはデ・リ−フデ号のみであった。

デ・リ−フデ号の乗組員は150人でしたが、日本到着時の生存者は24人で、歩くことができたのは数人でした。日本到着後も6人が死亡しています。ウイリアム・アダムス(三浦按針)は歩くことができたその一人で、大阪城で徳川家康に会い、渡航の目的や世界情勢について話しました。

造船技術や外交、国際情勢の知識をもって家康の信任をうけ、三浦半島に領地を得て旗本となりました。。「平戸の文化と自然」より。

 

 

 この3枚の写真は復元された平戸オランダ商館で撮ったものです。

左の写真はデ・リ−フデ号と、その生存者乗組員の送還に平戸松浦家が尽力し、やがて平戸にオランダ商館が設立される契機になることを説明している。

 

 大航海時代の過酷な航海にいどむ西洋と、中国を含め、西洋と積極的に関わりをもっていく平戸松浦家には興味深いものがあります。

 

 

hirad3519 | 平戸の歴史 | 19:45 | - | - | - | - |

歴史の道 平戸

 平戸港交流広場から松浦資料博物館えの道を歴史の道と呼んでいるようです。

 

 その歴史の道に16世紀から17世紀にかけて、平戸が中国 ポルトガル スペイン オランダ イギリスと海外貿易をしていたころ活躍した人物の像が建てられている。

 

 その像を紹介します。良く見たつもりですが、像と名前が違っていたらあしからず。

 

リチャ−ド・コックス像

イギリス商館長です。

1613年平戸にイギリス商館が設置されると、リチャ−ド・コックスは商館長の任命され、日本との貿易に携わりますが、先行するオランダ貿易に追いつけず、苦しい経営になり、1623年平戸商館は閉鎖されます。


 

 

ジャックス・スペックス像

1609年平戸に商館が設置されると初代オランダ商館長に任命されます。1621年まで商館長をつとめます。

 

 スペックスは平戸オランダ商館の在任が長かったこともあり、日本の風習やしきたりを理解し、オランダ貿易が円滑に行えるよう心がけたようです。

その手腕は高く評価され、オランダ人やイギリス人はスペックスにちなんで平戸瀬戸のことを「スペックス海峡」と呼んでいました。

 

 1628年にはバタビア総督に任命され1632年総督を辞任しオランダに帰国。1645年ごろ没しました。
 

 

ウイリアム・アダムス像

徳川幕府より領地を与えられ旗本となった三浦按針です。

 

 イギリス生まれですが、若いときから造船 天文学 航海術なを学び、オランダが南アメリカのマゼラン海峡を越えて太平洋を横断して、アジアへ送り込んだ5隻の船のうち「デ・リ−フデ号」の航海長として乗り込みます。5隻のうち「デ・リ−フデ号」のみが豊後国臼杵に辿りつきます。

 

 アダムスは徳川家康に会い、渡航の目的や世界情勢について話をするうち、家康の命令で様式帆船を伊豆で完成させるなど、造船技術や外交、国際情勢の知識をもって家康の信任をうけ、相模国三浦郡逸見村(横須賀市)に領地を得て旗本となっています。イギリスが平戸に商館を建設したとき幕府との仲介の労をとり、アダムス自身も平戸で貿易家として活躍し、イギリスへの帰国の希望があったものの、平戸で没し、先方公園に墓地があります。

 

 

 五峰王直の像

中国安徽省の生まれ。当時の明が鎖国政策をとったため、密貿易からはじまり、海商とも海賊の首領ともいわれてい。後期倭寇の時代に活躍した。

 

 第25代松浦隆信によって優遇され、平戸に多くの手下を従えて居住しました。

火薬の原料となる硝石や硫黄を扱ったので、戦国時代の大名との取引もあり巨額の富を得た。

 

 1543年種子島に鉄砲が伝来するのは、ポルトガル船が漂着したのではなく、王直の船に乗船していたポルトガル人が鉄砲を伝えたことが史実のようです。

 

 王直の様子は安部龍太郎の「五峰の鷹」によく描写されています。


 

 

第25代松浦隆信の像

13歳で松浦家を継ぐとのち戦国大名となり、領地を広げていきます。大村領であった佐世保、日宇、早岐、佐志を領地とするのも隆信の時代になります。

 

 松浦家を継ぐと翌年には中国人海賊の首領であった五峰王直を平戸に迎い入れ、中国貿易を盛んに行い勢力拡大の資としました。

 

 その王直の手引きによってポルトガル商船が平戸に入港すると、平戸は一気に西欧貿易港として日本中に注目されるようになっていきます。
 

hirad3519 | 平戸の歴史 | 19:07 | - | - | - | - |

平戸には王直より以前から中国人海商が沢山きていた

 中国人海商がいつごろから平戸へやってきたかというと、「窮河話海」という書物に「平戸港口の松浦に唐人匍眼(れいきし=疫病神)がある」これは1522−1566年のはじめごろ平戸に交易へ行って殺害された福建商人の霊がたたったため、島主が祀ったもので、その後島主が殺害された唐人を手厚く祀って唐人を優遇したので、以後福建商人が多く来るようになったと記されていて、平戸松浦氏24代興信(おきのぶ)の後半時代にあたります。

 

 一方中国では1522年ポルトガル船が中国広東に来航し通商を求めましたが許可されず、密貿易を行うようになって、次第に中国泉州をへて浙江省の寧波(ニンポ−)に展開、寧波付近の港と福建の月港とが密貿易の中心地となりました。

その後中国商人や密貿易者を仲介して南下する日本商人と接触を持つようになります。この密貿易に従事したのは、主に福建、広東、浙江地方の沿岸民でした。

 

 明商船の日本来航は1531−1554年中期以降著しく、平戸や豊後の神宮寺浦、佐浦など各地に入港しました。そうして各地に中国華僑の居住区が出来上がっていくなかで、平戸でも平戸港を中心とする一帯が彼らの居住区となったと考えられます。

                                  「平戸の文化と自然」より

hirad3519 | 平戸の歴史 | 18:20 | - | - | - | - |

平戸オランダ商館 商館長へ宛てた524通の書簡が発見

 今日の新聞に平戸オランダ商館 商館長にあてた524通の書簡が、ハ−グ国立文書館で確認されたという報道がありましたので掲載します。平戸検定でご一緒した人から18日の読売新聞に掲載されたものを連絡いただきましたが、同じ書簡だと思います。

 

 524通は、オランダ東インド会社の外交や貿易の拠点となった平戸商館に関連した書簡が中心。初期は日本を自由に行き来できた駐在員らが、商人や武士らから情報を得て、商館長に報告していた。

 調査を進める国際日本文化研究センタ−のフレデリック・クレインス准教授は「書簡には、日本の資料にない記述があり、情報の宝庫といえる。外国人の視点で日本を臨場感豊かに記し、市井の人々の姿を記録している点でも非常に貴重な資料だ」と話している。
 

 

 

 17世紀初期、平戸にあった平戸オランダ商館。

復元されたもので、正確には平戸オランダ商館の倉庫といわれている。

なかには、展示物があり、イベントや講座等が行われています。

 

  平戸オランダ商館
 

hirad3519 | 平戸の歴史 | 11:51 | - | - | - | - |

新聞連載小説「等伯」

 
 「五峰の鷹」と同時に、新聞では「等伯」が連載され毎日楽しみにしていた。

 等伯とは長谷川等伯のことで、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師で、千利休や豊臣秀吉らに重用され、当時画壇のトップにいた狩野派を脅かすほどの絵師であった。

  「五峰の鷹」と「等伯」の連載小説を読みながら、当初著者がおなじとは知りませんでした。著者のことをあまり気にしていなかったので。

 あるとき「等伯」のなかで、時代背景を述べると言って、南蛮貿易について書いているので、あれっと思って著者を確認すると、どちらも安部龍太郎だったので、驚いてしまった。

 安倍龍太郎はこの「等伯」で直木賞を受賞します。新聞の連載小説を書くほどの人が直木賞を受賞するのかというのも
驚きの一つでしたが、南蛮貿易が当時の日本人に与えた影響は大きいものだった。
hirad3519 | 平戸の歴史 | 18:44 | - | - | - | - |

安部龍太郎著「五峰の鷹」

 

 

 数年前平戸紀行のブログを再開するにあたって、平戸と関係のあるものはなんだろうと一応考えてはみました。1540年ごろから1641年までの100年間平戸は南蛮貿易で栄え、鎖国と同時に寂れていくというのが一般的な考えですが、その当時の平戸が歴史上どんな影響をあたえ、それが今日の日本につながっているものはないだろうかと。

 
直接的にはないけど間接的には、鉄砲伝来から戦国時代の武士の戦争、戦術を激変させた南蛮貿易がそれにあたる。戦国時代が終わりやがて平和な徳川時代になり、明治維新につながっていく。南蛮貿易が日本に与えた影響は計り知れない。

  そう思っているとき、平戸オランダ商館が再建され、新聞の連載小説では同時代で南蛮貿易を通じて、堺の商人を通じてヨ−ロッパの絵画から影響を受ける安部龍太郎著の「等伯」がはじまり、週刊ポストでは同じ作者の「五峰の鷹」が連載されるようになった。「五峰の鷹」は松浦藩第25代当主松浦隆信の招請により、平戸に居城があった、後期倭寇の中国人五峰王直の絶対的信頼を得た若き主人公の物語で、若き織田信長や、毛利元就なども登場する面白い物語です。南蛮貿易では石見銀山の銀がいかに重要な働きをしていたかもよくわかります。

hirad3519 | 平戸の歴史 | 20:26 | - | - | - | - |

江戸時代の平戸の城下町

 
 松浦資料博物館ではガラス越しに展示されているため、展示物をうまく撮影することが私には難しいのですが、この城下町の絵図はうまく撮れたほうです。

 寛政4年(1792)の平戸六町図。
松浦資料博物館には江戸時代の平戸城下の絵図が4点所蔵されているそうですが、そのうちの一つです。

 その特徴は、海岸沿いは商工業者の町人の居住区域でしめられていて、武士の居住区域を含んでいないということです。武士の居住地は、町人の居住する平地部の後背地の丘陵に居住することになっています。

 近世大名の城下町は、武士及び町人(商工業者)の居住区域からなるのが通常の姿である。その意味において、その大半が町人の居住区域から成立していた城下町平戸のありかたは、やや特異であるといわねばならない。「松浦氏と平戸貿易」外山幹夫著から。

 その理由については、平安時代末期から江戸時代を通じて転封なしに松浦家が領地を治めたことによる、松浦家の伝統的な考えがあったこと。平地が少なかったこと。海外貿易、捕鯨など商業等を重視したことなどが考えられる。
 
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