平戸オランダ商館とオランダ井戸

 平戸に行ったときは、復元された平戸オランダ商館倉庫と松浦資料博物館にはかならず見学することにしています。この写真も今年帰省したとき撮ったものです。

江戸時代鎖国になり長崎の出島に移転するまでの、1609から1641年の33年間、オランダが平戸に貿易の拠点としたのが平戸オランダ商館で、2011年にそのなかのオランダ商館倉庫が復元されました。

 復元された当時には南蛮貿易を背景とした、安部龍太郎の新聞連載小説「等伯」が掲載され、同じ作家が週刊誌に掲載した「五峰の鷹」が同じく南蛮小説や中国貿易を背景として連載された。当時はなにかの縁を感じたものです。
 

 

 連載小説が終ると二件とも新刊本として発刊している。

当時を知ることができる貴重な小説です。貿易にとって石見で採掘された銀がおおきな働きをしていたこともあらためて認識しました。

 

平戸オランダ商館倉庫は復元されたものですが、江戸時代に使用されていた当時の井戸がいまでも残されています。

オランダ商館の近くにあります。

 

 

 はいるとすぐある大きい井戸そと右奥にある小さい井戸の二つがあります。

 

 案内板の説明によりますと、大きい井戸からは船に水が供給され、小さい井戸はオランダ商館の厨房に水を供給されたのこと。

この井戸が正面にある大きい井戸。

 

 

 

 

左奥にある小さい井戸です。

平戸にはオランダ井戸の他に、六角井戸というのもあります。

松浦資料博物館に登る階段の近くにあります。1500年前半に活躍した中国人王直が平戸に拠点をおいていたことがあり、井戸の形式が日本の井戸と違うところから、中国人が使用した井戸とみなされ、当時の井戸が今も現存しています。
 


 

hirad3519 | 平戸にある歴史的記念物 | 18:06 | - | - | - | - |

日本一高い弘法大師空海立像

 今年の帰省では平戸で一度も行ったことがないところに行くことにしました。佐世保にすんでいる娘夫婦がどこでも連れて行ってくれるというので、平戸観光協会が平戸の観光地を案内している地図をみながら、もちろん娘夫婦も初めての場所です。

 

 これもその一つで渡唐大師立像です。2015.7.31の私のブログでも一度紹介していますが、画像は提供されたもので私が撮ったものではありません。

 

 今回は私が撮影したものですがほとんど同じで、わずかですが近づいて撮ったか、離れて撮ったかの違いです。というのも右側に建物があってこの位置からしか取れないのです。

 

 実際にみるとその大きさと、この立像を建立したエネルギ−に驚いてしまいます。いきさつを知ってる人がいたら聞きたい衝動にかられます。

 

 延暦23年(804)、空海が随行した遣唐使船は、平戸島北岸の田の浦沖で第三船が難破したため、一時田の浦に寄港しました。現在田の浦には「空海の腰掛岩」や「遣唐使船の井戸」などが伝承されているそうです。

 

 平戸観光協会の案内を再度掲載します。

 この像は遣唐使船が船出したゆかりの地、大久保町田の浦の丘に、石像としては日本一の規模を誇る弘法大師空海の石像がある。大師像は、大師入定1155年を記念して、渡唐大師建立委員会が建設を計画。真言宗各派の協力をえて、全国各地から浄財を集め建立したもので、像の高さは7メ−トル。台座を含めると16メ−トルにもなり、石像としては日本一の規模である。

 

PS 

  道路沿いに案内板はあるものの目的地に着くのに少し苦労しました。田の浦海岸近くまで行って、ここではないともう一度登って   ていくと左側にありましたが、前だけをみて運転しているととおりすぎてしまうところです。 

hirad3519 | 平戸にある歴史的記念物 | 19:20 | - | - | - | - |

平戸市崎方公園にあるフランシスコ・ザビエル記念碑と三浦按針の墓

 北海道出身の友人が奥さんのお母さんが平戸出身ということもあって、平戸に行ったことがあるそうです。その時の印象として記念碑が多い街との印象をもったようですが、平戸は一面歴史的な街なので、その記念として記念碑が多くなります。そのなかで崎方公園にあるフランスコ・ザビエル記念碑と三浦按針の墓を紹介してみます。

 

フランシスコ・ザビエルは、1550(天分19)鹿児島を経て平戸を訪れ、短期間ではあるが都合三度平戸を尋ねて、領主隆信の許しを得て、平戸に初めてのキリスト教の布教伝導にあたった。 その事跡を偲んで、1949(昭和24)フランシスコ・ザビエル来朝400年を記念して崎方公園の高台に、白の大理石造りの記念碑が建てられた。 十字架をかたどる碑の中央に刻まれたザビエルの胸像の視線は、遠くエルサレムを望んでいるという。 平戸観光協会のHPより

 

 

 三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、始めて日本に来たイギリス人である。 1600(慶長5)オランダ船リーフデ号(航海長)で豊後(大分県)に漂着し、平戸には1613(慶長18)にやって来た。 その間徳川家康は、彼を外交顧問として、今の神奈川県三浦市に住まわせ、250石を与え召し抱えていた。慶長年間、オランダ、イギリスが通商を許され、平戸に商館を設置するようになったのは、按針の力によるところ大であったといわれている。 後に、平戸イギリス商館長コックスのもとで活躍し、1620(元和6)平戸で病死した。墓地は定かではないが、1954(昭和29)三浦按針の墓を建立し、夫婦塚は、1964(昭和39)アダムス誕生400年にあたりイギリスの妻の墓地より夫人の霊魂の象徴として小石をとりよせてアダムスの墓に合葬し夫婦塚としたものである。平戸市役所のHPより

hirad3519 | 平戸にある歴史的記念物 | 20:38 | - | - | - | - |

座禅石  日本最初の禅院「冨春庵」 

 
 禅宗の流れには、曹洞宗と臨済宗がありますが、臨済宗の開祖栄西禅師が日本で最初に座禅した禅院で「冨春庵」という庵がありました。
しかしいつしか途絶え、江戸時代元禄8年(1695)になって第5代平戸藩主松浦棟が龍燈山千光寺として再建し現在に至っています。「平戸の文化と自然」より
 
 その千光寺のそばに、栄西禅師が座禅したといわれる座禅石があります。

 2013年に帰省したとき撮影したもの。




 これは平戸市が作成した、冨春庵についての説明書です。

 第2回目の入宋で臨済宗の嗣法の印可を受けた栄西は1192年7月帰国。平戸葦の浦(あしのうら=古江)に着船しました。この時、戸部侍郎清貫が禅師のため庵を設け、禅の道場としたと伝えられています。

 禅師は著書「喫茶養生記」において喫茶の効用を唱え、抹茶の飲用法を伝え、のちの茶道文化に大きな足跡を残しています。
 栄西禅師は「千光国師」ともよばれます。これは2回目の入宋の時、栄西の功績によって宋の皇帝から賜った号によります。

 21日(水)、NHKで世界へG0!大阪の陣家康イギリス極秘作戦が放送されました。私が見たのはその一部、ド迫力!巨砲大実験 冬の陣・大逆転の秘密のところで、イギリスが日本貿易から撤退する理由の場面で、松浦資料博物館学芸員 久家孝史さんの名前が画面に登場していました。
hirad3519 | 平戸にある歴史的記念物 | 11:58 | - | - | - | - |

六角井戸

 
 松浦資料博物館の茶室閑雲亭で、お茶とお菓子をいただき、私の好きな階段を降りて右手にいくと、16世紀中国人が造って使用していたと言われる六角井戸がありました。この井戸は16世紀の後期倭寇に関係した中国人と関係があるといわれています。
 
 13、14世紀を中心とする前期倭寇の侵略の対象が主に高麗(のち朝鮮)であったのに対し、16世紀の後期倭寇の対象は主に明であった。
 前期倭寇の発生原因は、平戸、五島、壱岐、対馬の土豪・土民の経済的困窮が主であった。

 

 これに対し、後期のそれは、むしろ朝貢貿易を基本として、一般の中国人が、海上で外国人と自由貿易することを無理に禁止しようとする中国(明)の「解禁」の政策が、倭寇発生の大きな要因であった。「解禁」を無視して密貿易を行おうとする福建・広東・浙江等の東シナ海沿岸のとくに米商人や塩商人達が倭寇と携帯して中国官憲に賄賂をおくり、ときにこれに抵抗した。その結果倭寇には、この当時相当多くの中国人が含まれていた。従って前期倭寇とはその性格を大いに異にするものであった。
 



 こうした倭寇の首領が王直であった。
王直は元来米塩商人であった。しかし事業に失敗したことから海上密貿易者に転じた。広東を根拠に大船をつくり、日本・シャム・その他南洋方面で、硝石、硫黄・生糸・綿等の密貿易を行い、たちまち巨富を蓄えるにいたった。その人柄は任侠と智略に富み、ある程度教養も備えていた。こうしたことからやがて倭寇の頭目となったのである。
 
 1543年来日した王直は五島の福江に根拠をおき、王直自身は平戸に居宅を構えた。王直が平戸に居を構えたのは、恐らく領主松浦隆信の勧誘によるものと思われる。隆信はこれを迎え、港を見下ろす町の一角(平戸市鏡川町)に屋敷を与えた。「大曲記」はその屋敷を印山寺屋敷と称したとする。その屋敷は唐風の豪奢なものであり、常に緞位をまとった彼は港に300人を乗せる大船を浮かべ、2000人の部下を従え、徴王ともいわれていたという。
 
 そのため中国船の平戸への入港が相つぎ、平戸は繁栄した。松浦氏が王直を招いたのも、正にその点に狙いがあったのである。王直はまた大内義隆や、大友宗麟とも交渉を持っている。対外貿易の利を追う西日本の戦国大名としては、王直は誠に頼み甲斐のある存在であったのである。「松浦氏と平戸貿易」外山幹夫著から。

 こうした中国人との関わりを現在に残した貴重な六角井戸です。

hirad3519 | 平戸にある歴史的記念物 | 11:33 | - | - | - | - |

渡唐大師立像   弘法大師空海の像

 
  延暦23年(804)、空海が随行した遣唐使船は、平戸島北岸の田の浦沖で第三船が難破したため、一時田の浦に寄港しました。現在田の浦には「空海の腰掛石」や「遣唐使船の井戸」などが伝承されているそうです。

 この像は遣唐使船が船出したゆかりの地、大久保町田の浦の丘に、石像としては日本一の規模を誇る弘法大師空海の石像がある。大師像は、大師入定1155年を記念して、渡唐大師建立委員会が建設を計画。真言宗各派の協力をえて、全国各地から浄財を集め建立したもので、像の高さは7メ−トル。台座を含めると16メ−トルにもなり、石像としては日本一の規模である。「平戸観光協会」の案内による。

 私はまだ田助や、田の浦には行ったことがありません。機会があればいきたいと思っています。

 この写真は最近、志々伎(平戸島南部)に帰省した人から提供されたものです。

hirad3519 | 平戸にある歴史的記念物 | 14:07 | - | - | - | - |

コルネリア供養塔

 
 平戸の観光スポット、教会とお寺が見える風景での教会下の瑞雲寺境内に「コルネリア供養塔」という石塔があります。これは天和2年(1682)コルネリアが亡父ナイエンロ−デの供養のため建立したものと伝えられています。

 寛永16年(1639)にオランダ人やイギリス人の家族となった婦人と子供たちは、幕府の命令でバタビア(現在のインドネシア・ジャカルタ)へ追放となりました。彼らのバタビアでの生活やその後どういった生涯を歩んだかはあまり知られていませんが、平戸に残された4通の「じゃがたら文(ぶみ)は、僅かにその心情を伝えています。

 写真は亀岡公園の種田山頭火の歌碑と同じ人の提供によります。
 
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