平戸つる草  

 今朝平戸が載っているといって妻が切り抜いていたものです。朝日新聞の広告欄で出版物、健康365 5月号の広告。

真ん中に「乾癬 抜群の細胞修復力で難治の皮膚病に希望の光!」長崎生まれ「平戸つる草」とあります。その二つ左側に 速報 「平戸つる草」は手の指変形するヘバ−デン結節にも効いた!とあります。

 

 平戸つる草とはどんなものかと思ってネットで調べてみました。長崎県の農商工連携支援事業から生まれたもので、平戸市内にある複数の契約農家で無農薬栽培されているつる草とあり、平戸つる草の葉から抽出されたエキスを配合した健康食品やクリ−ムは乾癬の改善に役立つことがわかってきました。とあります。

 

 さらに現在久留米大学先端癌治療センタ−では平戸つる草の粒食品を併用したガン治療に関する試験が行われいます。

 

 こういったことの一端に平戸の農家が関わっているのをはじめて知りました。中国の労働者の賃金が上昇するにつれて漢方薬の原料も中国ではなく国内で栽培しても採算があうのではとかつてに想像していたら、佐賀県の農家は九州大学と共同ですでに漢方薬の原料を栽培する研究をやっているという記事をどこかで読んだことがあります。私の想像よりも早く地方では薬の原材料の研究が進んでいるようです。

 

 
 

hirad3519 | 平戸の産業 | 19:15 | - | - | - | - |

最近のニュ−スから 「新規就農者に最大60万円助成」

 
 昨日の日経に小さな記事がありました。

 農林中央金庫は新たに農業を始める就農者に無償で助成金を配る支援策を10月から始める。今後4年間で24億円を用意し、1人あたり最大60万円を支給する。国や自治体が新規就農者に支援金を給付する事例はあるが、民間金融機関では珍しい。2014年の農業人口は227万人と5年前から60万人減っており、今後も減少が見込まれる。就農を後押しし将来の融資先の確保につなげる。
対象となるのは農業の計画などが自治体に認められた45歳未満の新規就農者で、助成金を農地の賃借料や税理士に払う費用、肥料代などの用途に使う場合。

 「和牛生産に黄信号」というブログを書いたことがありますが、それから何度か同じような記事が新聞に記載されていた。子牛の価格が高くなっても、肥育業者が価格を転化できないというものでした。帰省したとき近くの子牛も生産している農家の人と話をしたら、子牛の価格の高騰は子牛の生産者が高齢化し後継者がいないことが一つの原因といっていた。新聞によれば宮崎県で口蹄疫の影響が強く、口蹄疫が収束しても、生産者が4割ちかくまで減少したことも原因だといっている。
平戸には子牛の生産者もいますが、肥育業者もいます。
 
 農家の後継者不足は深刻。

 一昨日の夕食は野菜のテンプラでした。そのなかに中津良から送られてきた玉葱がありましたが、甘くて本当に美味しい。こんな玉葱はじめてです。

 
hirad3519 | 平戸の産業 | 12:35 | - | - | - | - |

和牛生産に黄信号

 
  毎日毎日月日の経つのは早いものです。この記事は15日で、ブログに使えると思って切り取っていた。もう1週間まえの記事かと内心思っていたけど、まだ二日しかたっていません。

 池袋は仕事帰りよく寄ります。昼食のためか、ときには夕食の場合もあります。15日は久しぶりに魚売り場を覗いてみました。一度「まぐろが魚売り場から消える」というタイトルでブログを書いたことがありますが、本当に驚いてしまいました。サクでうっているマグロ売り場はほんの少ししかありません。本まぐろは見当たりませんでした。

 15日の新聞は「「和牛生産に黄信号」いうもので。神戸牛や松坂牛は、質のよい子牛を購入した肥育業者が時間をかけてブランド牛に育てると聞いています。

 この記事は子牛の供給不足から、子牛の価格が高騰、肥育業者は価格を転化するのが難しいため経営から撤退する農家がでてきたというものです。

 子牛を生産する平戸の畜産家にとっては、子牛価格の上昇は一時的には有利になるけど、肥育業者が少なくなると需要が減少して子牛の供給過剰になる可能性もありえる。

 子牛の生産を増やし、価格をさげて肥育業者と共存共栄していくことが望まれる。子牛を増やすことが生産農家の増、イコ−ル人口の増ということになれば?
 

hirad3519 | 平戸の産業 | 09:23 | - | - | - | - |

平戸の捕鯨と鯨供養塔

 
 捕鯨に携わった人たちは、その命に感謝し、鯨の供養塔を建立して、すえながく供養しました。

最教寺奥の院、的山大島の真教寺、平戸中の崎の緑岡神社に鯨供養塔を建立しています。


「平戸の文化と自然」には掲載されていませんが、平戸南部の前津吉、長泉寺にも五重塔の立派な供養塔があります。


ウキペディアにも次のような文が載っている。


長崎県平戸市の長泉寺に鯨供養石造五重塔がある。1739元文4年)に小値賀島の鯨組である小田組と地域住民の寄進により建立され長崎県の有形民俗文化財 に指定されている。この五重石塔は砂岩の基礎と塔身の軸部と笠、相輪部からなり、高さ4.6m多宝如来(合掌印)と釈迦如来(禅定印)と法華経見宝塔品の諸仏の名を刻む。平戸島前津吉の浜は1692(元禄5年)から1859まで167年間捕鯨で繁栄していた。

hirad3519 | 平戸の産業 | 11:50 | - | - | - | - |

平戸瀬戸の銃殺捕鯨


 明治7年(1874年)に益冨組が解散した後も、生月島では他の会社によって昭和30年代まで網組みの操業が続けられますが、一方、アメリカから新しい銃殺捕鯨法を導入して、平戸瀬戸で捕鯨を行おうという動きがでてきます。銃殺捕鯨法は、火薬を仕込んだ「火矢」という大きな弾体を銃で鯨に撃ち込んで爆発させ、鯨を仕留める方法です。

 明治15年(1882年)には、鯨猟会社が設立され、試験操業を行った後、昭和22年(1947年)まで、途中中断しながら捕鯨が行われます。

平戸瀬戸で銃殺捕鯨法を行った鯨組は植松組と呼ばれ、1月から5月にかけて、瀬戸を北上する上がり鯨をおもに捕獲しました。植松組の捕獲頭数は、良く取れた年で12頭、平均では6頭程度でしたが、50人程度の規模だったので、そこそこ経営は成り立っていた。

                     「平戸の文化と自然」より

 
hirad3519 | 平戸の産業 | 09:05 | - | - | - | - |

江戸時代の捕鯨と太古丸 その(3) 生月島の益冨組

  生月島の益冨組は1725年から明治7年解散するまで、142漁期に捕獲した鯨は21,790頭、収入は332万両にのぼる日本最大規模の鯨組でした。

  享保10年(1725年)舘浦で、畳屋又左衛門が共同者と一緒に突組を始めます。1729年に根拠地を東北部の御崎浦に移し、1733年に網掛突組捕鯨法に移行して経営を安定させ、平戸藩主から「益冨」の姓をいただきます。益富組はさらなる発展を目指して壱岐へ進出、壱岐の土肥組と壱岐の二つの浦を交代で使用する取り決めをさだめ、19世紀に入ると壱岐の漁場を制し、計5組の網組を傘下におさめた。益冨組が生月島の御崎浦に配置していた鯨組は、600人近い人が働いていた。

 益富組の成功の秘密は、1 一族を要所に配した強固な経営体制を築いていたこと。 2  鯨の捕獲から解体、鯨製品の製造、さらには販売まで一手におこなう経営手法であったこと。 3 冬に鯨が下りてくる主要な漁場である壱岐の操業に、春に西から上ってくる鯨の漁場である五島灘の操業を組み合わせた安定した操業形態をもっていたことといわれている。

 さしもの益富組も、幕末欧米捕鯨船が日本近海で操業するようになり、鯨が激減、明治7年捕鯨業から撤退する。

 益冨組解散後も、生月島では他の会社によって昭和30年代まで網組の操業が続けられました。

                     「平戸の文化と自然」による
hirad3519 | 平戸の産業 | 18:48 | - | - | - | - |

江戸時代の捕鯨と太古丸 その(2)

 
 紀州からの鯨組は、度島や的山大島を拠点にして、鯨漁をやっていましたが、平戸の町人も1626年平野屋作兵衛が度島で捕鯨をはじめ、翌年にはそれぞれの組が、田助浦、薄香浦、壱岐の印通寺浦に出漁している。外国貿易で得た利益が捕鯨業に投資することを可能にした。平戸町人の鯨組は、壱岐や対馬、五島灘の島々を利用して沢山の組が操業をおこない、その時代の西海捕鯨業をリ−ドします。

 しかし、1677年紀州太地浦で最初に網を鯨に絡めて行き足をそいでから突き捕る漁法−網掛突取捕鯨法−が発明され、1年後には大村領の鯨組主を通じて西海漁場に導入されます。
平戸町人の鯨組は、網掛突取捕鯨法が導入された後も従来の突取捕鯨に固執したため17世紀の終わりには衰微してしまいます。

 的山大島では平戸に遅れること1661年、井元弥七左衛門が突取捕鯨を始めた。18世紀に入ると、井元組は大島だけでなく、五島小値賀や壱岐勝本にも出漁し、網掛突取捕鯨法も学びながら享保年間の始めには最盛期をむかえますが、理由はよくわかっていませんが、享保年間後半になると井元組は鯨組の操業から撤退する。

 その(3)では、日本最大規模の鯨組になる、生月島の益冨組についてまとめてみます。

                      「平戸の文化と自然」による
hirad3519 | 平戸の産業 | 18:42 | - | - | - | - |

江戸時代の捕鯨と太古丸 その(1)



















  






「平戸の文化と自然」の捕鯨についての記載を読んでいると、小学校高学年のとき五島の富江で鯨の解体を目の前でみたことを鮮明に思い出す。富江とは上の地図で福江の左側すぐそばになる。
上記の地図は博多から福江に向かう太古丸の航路を示すものです。当時太古丸は平戸にも寄港していたので、平戸から乗船し、若松で一泊、翌朝福江に向かっていた(このことをブログに載せるのは2回目になります)。この地図に壱岐・対馬が載っていれば、江戸時代初めごろから盛んになる捕鯨の西海漁場をしめすことになります。テキストによれば西海漁場は九州北西部から山口県にかけて広がる漁場となっている。

  安倍龍太郎著 「五峰の鷹」でも、主人公が「王直」に合うために、博多から出港、呼子と宮之浦にそれぞれ一泊して3日目に五島に着いたという一場面がある。太古丸を運航している野母商船のHPをよんでいると、今は深夜博多を出港して朝の9時頃福江に到着するという。16世紀の帆船も以外と早いというのが私の感想です。

  「平戸の文化と自然」によれば、捕鯨の歴史は1616年、紀州(現和歌山県)から西海に鯨組がやってきて、鯨を突いて捕る突取捕鯨を始めたことに始まり、昭和30年代まで鯨漁がおこなわれていたとあるので、私が鯨の解体を目にしたのはその最後のころになるとおもわれます。
 

 
 
hirad3519 | 平戸の産業 | 18:52 | - | - | - | - |
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